被保佐人Aさんのこと

別れは突然だった。それでもやり切った感があるのはなぜだろう。

受任し8年。多くの病気を抱え、ここ2年は入退院を繰返した。思考はしっかりし、思いや希望を自らのことばで訴える。毎日電話をもらい、ときには深夜3時などということもあった。

「保佐人報酬が高いから、契約し生活費を届けてもらうサービスに変える」と初めの頃何度も言われたが、その都度、かかりつけ医や兄妹、サービス関係者から反対された。特に今は亡き妹さんが「絶対、菅原さんから離れてはダメだ」と何度も諭してくれたようだった。年金の更新時期が来年に迫って来ると気持ちが不安定になるのも、額が下がらないか心配するためだった。

家族とは疎遠で、別れて暮らす子どもさんの話は1~2回しか聞いたことがない。

65歳になったとたん体力が低下、障害サービスから介護保険に変わらざるを得なかった。有料老人ホームにお世話になり、手持ち金を使い果たし、生活保護を申請、受給決定し安堵したと思ったら、特養に入所が叶った。マイカーに荷物を乗せ、2年で3回も引越した。有料ホームの頃は食べることが楽しみで、希望のお菓子やカップ麵などを数千円も買い、毎月差入した。

ただ、誤嚥性肺炎を何度も患い、最期まで苦しんだ。

 

亡くなる前夜、ホームの部屋から電話で「胸が苦しい」と言われた。兄に電話したら「菅原にかけろ」と言われたと。「ナースコールを押して!」と伝えた。救急搬送されたと聞き駆け付けた。検査のあと入院が決まり、病室に行くときは意識がなかった。嫌な予感が頭をよぎったが「また明日の朝来ますね」と告げ深夜に帰宅したら、まもなく病院から危篤の知らせ。すぐに駆けつけたものの、医師に死亡を告げられた。
電話での一声はいつも「あのさ~」から始まった。もう聞くことができない。