8年たちました
~東日本大震災支援活動をふりかえって~
(前半)
社会福祉士・要約筆記者
チームはちまき 代表 菅原千佳
2011年3月11日、私は東京にいた。出張で上京し、10日は霞が関で研修を受けた。そのまま、週末行われる末娘の大学の卒業式に出席するため休みをもらい娘のアパートにいるときだった。突然の大きな揺れに、冷蔵庫の上の電子レンジが落ちそうになった。慌ててレンジを抱えたものの何が起きたのかしばらくわからずにいた。まもなくテレビが、東北で大きな地震があったことを伝えた。そしてあの“津波”の映像が・・・。衝撃だった。一晩、燃えさかる炎を見続けた。呆然と・・・。
当然、卒業式は中止。その後東北新幹線は数か月不通になったものの、上越新幹線は止まらず、14日予定通りに帰宅した。
車内には、新潟まわりで太平洋側をめざす、被災地に家族や友人がいるのだろうと思われる人が大勢いた。思いつめた顔で携帯電話をかける。呼び出し音だけで相手は出ない。不安が体中を覆う。そのうちに充電が切れたのであろう。ケイタイを握りしめうなだれる姿。
充電器を差し出したら、目を見張り「いいんですか」と問う若い女性にうなずいた。「ありがとうございます」涙で声が震えていた。あの瞬間、私の被災地支援活動が始まったのだと思う。
帰ると、ガソリンや電池などが手に入らなくなった。流通が大きく影響を受け不便な思いで過ごした。テレビはコマーシャルを止め、被災地の情報を流し続けた。日々のあらゆる会合は自粛という名目で中止になった。
3月18日、前年ある研修を一緒に受けたSさんにメールを送った。「どんな動きをしていますか」彼は鶴岡災害ボランティアネットワークの会員だった。すぐに返事が来た。
「石巻はまもなく災害ボランティアセンターが立ち上がる。スコップを使えるようになる。でも、南三陸町は壊滅的で、いつスコップが使えるようになるかわからない。ただ、菅原さん、被災地に行きたいなら連れて行ってあげますよ」
行動を開始した。賛同してくれそうな人に声をかけ実行委員会をつくった。すぐにでも行きたい気持ちを抑え、行く日を4月10日に決定、何度も実行委員会を開いては詳細を決めていった。参加を募るチラシには『かたづけ人 募集』と書いた。申込先に自分の携帯番号を書いたときはとても緊張したことをはっきり覚えている。
前日、ト一屋みずほ通り店内で、高校生2人、公益大生2人、私の5人で募金活動をした。
「気をつけてね」「行けないけどよろしく」と言ってくれる人もいた。ありがたかった。10数万円集まり、マイクロバスを借りるお金ができて安堵した。
当日は、酒田・鶴岡両市から25人が参加。石巻市の八幡町で、泥かきや使い物にならなくなった家財道具などを運び出す仕事をした。一時間泥を運んでも、1メートルもきれいにならない。同行者がそこの家に子どもに「トイレを貸してください」と頼んだ。中学生の男の子は、ばつが悪そうに「トイレないんです」と答え、続けてビニール袋に用を足していると言った。中学生にそんなことを言わせてしまったと、申し訳なさで胸がいっぱいになった。そして、ここにトイレが復旧するまで手伝おうと心に誓った。
その後、庄内の各市町村でボランティアバスを運行するようになり多くの人が参加、酒田の高校生を学年ごとに連れて行ったりもした。
6月頃からか、南三陸町で一番大きな『平成の森避難所』に物資を運ぶようになった。避難所自治会に欲しいものを聞いては、庄内でいろんな人に声をかけ、集めて週末に運ぶ。欲しいものをタイムリーにお届けして喜ばれた。
仮設住宅に入居がはじまり、8月末に避難所が解散した。
阪神淡路大震災で、仮設住宅での孤独死が問題になったことを思い出し、できることはないかと考えた。そして、Sさんと、私の姉と3人で“チームはちまき”をつくり、傾聴活動をスタートしたのである。
200数十戸の『平成の森』仮設団地で、自治会とつながり、一軒ずつ訪ね始めた。「リハビリ用のズボンが欲しい」「アイロンが欲しい」90歳近いkさんからは「デイサービスが流されて退屈で・・・。ミシンがあれば」と言われた。さっそくミシンをさがし届けた。kさんの嬉しそうな顔が忘れられない。
酒田のあるお寺さんは募金活動をし、アイロンを20台寄せてくださった。とても喜ばれた。
訪ねるうちに、津波に流された3歳の孫をその母(Mさんの娘)と週末ごとに探すMさんや、親せきや知人が20人も流されたAさん、「弟家族5人中、父と残された小学6年生の女児の悲痛な叫びが忘れられない」と語るYさんの話も聴いた。一人ひとりの話は、機会があれば紹介したい。
私は、仕事で小中高校生のボランティア活動をサポートして来た。阪神淡路大震災が起こった1月17日にあわせ手づくりろうそくを長年送り続けて来たこともあり、南三陸町で『希望の灯(ともしび)』ができないか考えた。灯りを見て心を落ち着けてもらえればと思ったのである。幸い、現地で活動はできないが、ろうそくづくりやメッセージを書くのは手伝いたいとい
う庄内の皆さんがおおぜい協力してくれた。
『館浜』というわずか10数戸の仮設住宅の自治会長さんの畑に、震災の翌年の3月11日、はじめて『絆』と灯した。この仮設は、酒田市立南遊佐小学校の子どもたちが、地域の皆さんとつくったもち米を被災地に届けたいということで、申出があった。『平成の森』の自治会長さんに紹介してもらったのが『館浜』である。
大きな畑にろうそくや灯ろうをセットするのを、仮設の方々やお巡りさんまでもが手伝ってくれた。準備をしている私たちに「何をしているのですか」と通りがかった女性が尋ねた。わけを話すと「遠いところからありがとう」と言い、日没後再度訪れ、灯りを前に泣きながら
♪吾は海の子~さすらいの~♪と口ずさんでいた。
3月だけでなくお盆も灯した。文字は“絆”のほかに“明日へ”“一歩”“結”などそのつど仮設の方々と相談した決めた。灯りを見て「姉が見つかっていないけれど、もう踏ん切りをつけなくてはね」と寂しそうにつぶやく人や、火文字に手を合わせて長い間祈る人もいた。
灯ろうに書かれたメッセージや、彫られた切り絵をながめて「ありがとう」ということばをいっぱいもらった。
現地の高校生が多く参加してくれたときは“龍”と画数の多い文字に決まり、雨のなか一つずつ灯した。なぜ龍にしたのか問うと「天上と地上を行き来する唯一の生きものだから」と高校生のことば。闇のなかに“龍”が浮かび上がった。その時、一瞬雨があがった。
みんなの想いが天に届いた!涙をこらえるのがせいいっぱいだった。(つづく)