8年たちました

 

~東日本大震災支援活動をふりかえって~

 

(2回め)

 

     社会福祉士・要約筆記者

 

 チームはちまき 代表 菅原千佳

 

 

 

 2011年3月11日に起こった東日本大震災。亡くなった人、亡くした人、家や職場を失った人、数え切れないほど多くの“人生”があの瞬間から音を立てて崩れ落ちた。

 

隣県に住む者として何かお手伝いしたい、そんな思いに突き動かされてここまできた。

 

 震災の年の8月。

 

南三陸町で一番大きな避難所であった“平成の森”避難所自治会が解散し、250ほどの世帯がすぐそばの仮設住宅に移った。それまでは、避難所自治会を通して、住民の方々が必要なものを届ける・・・そんな活動を続けて来た。

 

神戸の大震災では、震災前のコミュニティが配慮されず、まったく知らない人同士が隣り合わせの住まいとなったと聞いた。一日だれとも会話しない日々が続き、その結果だれにも看取られずたった独りで亡くなる、いわゆる孤独死が問題になった。

 

 この震災では孤独死を防ぎたい、何とか手立てはないかと気持ちを同じくする鶴岡、酒田、遊佐の三人で“チームはちまき”をつくった。

 

 仮設住宅を一軒ずつ誰彼となくたずねた。「眠れますか。なにか必要な物はありませんか」

 

「新鮮な野菜が食べたい」「大きな字の国語辞典がほしい」「通っていたデイサービスが流されて退屈で・・・。ミシンをかけたい」

 

そんな一人ひとりの声に、庄内の新鮮な季節の野菜、辞典、ミシンは電動にしっくりせず足踏み式をさがして届けた。他にも書ききれないほどいろいろなものを届けた。庄内の、現地には行けないけれど協力したいという多くの人たちの“こころ”のおかげだ。

 

Ⅿさんは、仮設を訪ねたとき、とても疲れた顔で出てきた。60歳代の女性。津波で流された3歳の孫娘さんを捜しに行って帰宅したところだという。町内に嫁いだ娘さんは、しゅうと夫婦と夫、かわいい盛りの幼子を流された。この子だけが見つからない。周りの人たちは、海沿いの場所で重機を使うようアドバイスするが、機械では、この小さなからだが可哀そうで、とスコップで捜しているのだという。

 

独り残された娘は、もうこの町にはいたくないと言っていると。「私たちは酒田から来ました。福祉の仕事をしています」と自己紹介すると、娘がそちらに移り住んだらよろしくねと力なく笑った。

 

そのとき、Mさんは他に障がいのある娘さんがいることは明かさなかった。その後、仮設を訪ねるとMさんが明るく弾んだ顔で迎えてくれた。聞けば、障がいのある娘さんの通う障害者支援施設『のぞみ福祉作業所』の関わりで、『南三陸町手をつなぐ育成会』の会長をしていること、津波のとき、障がいのある人たちが、どう過ごしたかを全国に招かれ講演していると言った。

 

そのときを境にMさんはどんどん元気になって行った。私たちの要請にも応え、東北公益文科大学に講演にも来てくれた。はちまきは、のぞみ作業所の利用者さんと、芋煮会などで楽しく交流を深めた。学生は、作業所で作った品物を公益大の学祭で販売し作業所に還元したし、近年起こった熊本地震の被災者に役立てるなど、目を見張る行動を起こしたりもした。

 

Mさんは、高台に新居を建て、旦那さんと、作業所に通う娘さんの3人で暮らしている。

 

当時の天皇陛下が南三陸町の避難所を訪れた際、Mさんのところにひざまずいて話を聴いてくださった、それがきっかけとなり、今でも多くの新聞社やライターがMさんの話を聴きに訪れる。

 

幼子を含む家族全員を無くした娘さんもおおいに励まされたようで「天皇陛下から聴いていただいたのだから、生きていかないと」と言っているという。

 

 Yさんは、脳梗塞の後遺症で半身まひがある夫を介護している女性。酒田市立南遊佐小学校の子どもたちが地域の先生とつくったもち米を届けた縁でつきあいがはじまった。

 

 はちまきの活動で、歌津地区の館浜仮設を訪ねた時、ひとり散歩している女性に出会った。思わず「いいお天気ですね」と声をかけたら

 

「どこから来たのですか」と問われ「山形県の酒田です」と答えたら「もち米をくれた酒田ですね。どうもありがとう」とお礼を言われた。

 

Yさんにお茶をご馳走になり話を聴いた。

 

町外に住む弟さん一家は、津波で弟夫婦とお嫁さんが流された。残ったのは、一家の長男と小学生の娘の二人。まもなく三人は見つかったが、火葬場が混んですぐに火葬できず、いったん土葬せざるをえなかった。そういった儀式では、亡くなった人の名前ではなく、番号で呼ばれた。

 

娘は、Yさんの手をぎゅっと握り、涙は流さなかった。

 

 ほどなく火葬の順番が来た。業者の人が土葬を掘り返し、三人のからだを清めてくれた。他人が入らず三人だけで火葬することができた。この時もまた番号で呼ばれた。はじめて娘が声をあげて泣いた。この泣き声は一生忘れることはないだろう。しぼり出すように語ったYさんを忘れられない。

 

 Yさんは、毎年もち米を贈ってくれる南遊佐小学校の子どもたちと文通し、一度は学校を訪問するなど、いつも感謝の思いを伝えてくれた。自分たちは全国からあれほど支援してもらったのに、各地で災害が起きても何もできないと落ち込んでしまうことも多かった。

 

そんなとき、手なぐさみにした手芸が気持ちを癒してくれた。それを聴き、公益大で体験した傘福のさるぼぼを見せた。目を輝かして「可愛い!作りたい!」とYさん。大学や傘福研究会の皆さんにお願いし、歌津の仮設住宅2か所で傘福をつくった。それ以来Yさんは積極的にものづくりにのめり込んで、笑顔を見せてくれるようになった。震災前もさかんに作っていたのだろう手づくり味噌を私たちにご馳走してくれる。

 

MさんもYさんも、庄内のことを気にかけてくれ、大雨や地震の報道があるとすぐに心配して連絡をくれる。親せきのようなつき合いになった。  

 

一方、もう会えない人もいる。仮設を一軒ずつ訪ね傾聴活動を始めたその日、Aさんを訪ねた。「欲しいものはないですか」と問うと、小さく首を横に振るだけでことばはなく、涙ぐんでいた。また寄ると告げ、行くたびに顔を出した。遠慮がちに「アイロンがほしい」と伝えてくれたとき、たまたま車に1台残っていたアイロンを手渡した。一瞬の驚きのあと「ありがとうございます」と何度も繰り返すAさんに、こちらも胸がいっぱいになった。

 

知り合ってかなり経った頃、Aさんは一人暮らしの仮設住宅に招き入れてくれた。津波で親せきや友だち、近所の人などが20人も亡くなったこと、自分が震災前住んでいたのは他の地域で、仮設の人たちは知らない人ばかり、打ち解けられず過ごしたと教えてくれた。いずれ、長年住み慣れた地域に戻り、親せきの人たちの近くに住むのだと、期待に胸を膨らませていた。

 

ついに、来春は引っ越しするという秋、仮設のまわりの紅葉した木々を見て、こんなにきれいな風景は五年ここにいて初めてだと、目を輝かせていた。

 

想いが叶って、ついに震災前に住んでいた地域に移り住んだAさんを訪ねた。隣町に娘さんがいることは知っていたが、東京に息子がいて、立派な職業についていることを初めて知った。

 

こんなに笑顔あふれるAさんと語り合える日が来るなど想像もしなかっただけに感慨深く、心からよかったと思った。 (三回に続く)